この記事は2006年から2021年までの日韓の「多文化社会」が作られた過程を考察し、両国のゼノフォビアを見た上で、未来設計することを目的としている。
ゼノフォビア(Xenophobia)とは「外国人嫌悪」である。外国人恐怖症とも訳され、外国人や異民族と見られている人や集団を嫌悪、排斥あるいは憎悪する気質を指す。2006年、日本で登場した新造語の「多文化共生」はその後、日本社会のゼノフォビアが拡張されることを防ぐためのスローガンとなっている。異国人に対する警戒と恐怖は外敵から身を守るための本能であり、人類を含む生物界に普遍する現象である。ゼノフォビアはジェラシーのように本性の1つとして理解しても良い。ジェラシーが愛の一断面であるようにゼノフォビアは多文化共生の一断面である。ゼノフォビアが無ければ多文化共生も要らない。ジェラシーが真の愛と共存しているように、ゼノフォビアは多文化共生と共存している。
1990年代以降社会的に、ゼノフォビアが露呈されたのは西ヨーロッパの経済大国の国々である。少子化と労働力不足を補うために外国人を受け入れたフランス、ドイツ、イギリスなどである。ゼノフォビアは経済的貧国では表に出ることがない。言い換えれば、貧国は外国人労働者を受け入れることがな。外国人がわざわざ賃金の低い貧国へ移民することがないため、外国人嫌いの意識もない。ゼノフォビアは豊かな国に住む人々の話である。
外国人に対する社会統合はゼノフォビアを前提にしている。自国の必要性により受け入れた外国人移民者が、地域社会にソフトランディングして地域民のゼノフォビアを刺激せず穏やかに過ごせるための工夫である。その工夫を日本では「多文化共生」と呼んでいる。日本も韓国も少子高齢化と労働力不足という社会問題を解決する対策として、1990年代から外国人移民を推し進めている。2020年7月時点で韓国に在留資格を持って住んでいる外国人は全人口の5%であり、日本は2%である。ゼノフォビアが社会現象として現れた西欧の国々では外国人率が10%を超えたタイミングで現れていたので、日韓はまだそのタイミングに達してない。
では、経済的に発達した国ではなぜゼノフォビアが発生するのか、外国人を移民として受け入れた場合はゼノフォビアの社会的葛藤が避けられないのか。ゼノフォビアは外国人を受け入れる国民が外国人をどう感じるかの問題であって、外国人が国民をどう感じるかは別問題である。外国人が感じる気持ちと差別意識はどういう意味をもつのか。
ゼノフォビアは多文化共生の一側面であり、多文化政策を講じる理由であり、多文化共生の素顔である。ゼノフォビアは元始人類にもあったはずなので、必ずしも国境を前提にしている意識ではないが、今日問題になっているのは国境と国籍を前提にしている。国家が外国人を受け入れる理由はその国の国益に役たつからであるが、内国民が外国人と葛藤すればその管理には社会的費用がかかるので、国家は「多文化共生」という博愛主義を名分にして教育をして制度設計もしている。
日本と韓国で採用されてきた外国人社会統合がどういうものなのかについては後で比較してみることにしたい。ここでは日韓の違いを産んだ根本的なことを言及して置きたい。日本人のジェラシーと韓国人のジェラシーが根本的に異なる源について話をしたい。韓国人には底知らぬ厚かましい人権意識と正義感がある。日本人にはそれがない。韓国人のそういう意識は国家人権委員会と女性家族部を作ってしまった。一度作られた独立委員会と行政部署は予算と権限の縄張りを広げて来た。韓国では不法滞在者たちの労働権と労働組合設立も許されている(最高裁2007두4995)。
韓国ではゼノフォビアは罪悪として見なされている。韓国人の正義感と人類愛はどこから来たのか。軍事独裁と戦って自らの犠牲と努力で勝ち取った民主主義の経験の中で培った人権意識、労働組合運動、女性人権運動の論理とその力は大きい。国民の約30%がキリスト信者であることも日本とは大きな違いである。
果たしてこの韓国でゼノフォビアが幅を利かせることが可能であろうか。韓国では差別禁止法の立法が議論されている。