第二回日韓未来フォーラム / 小室翔子


 2014年12月20日から2日間にわたって行われた、韓日社会文化フォーラム主催の「韓日未来フォーラム」に参加した。今回このフォーラムに参加するに至った主な動機は「知りたい」という思いに尽きる。現在の日本と韓国間で抱えている問題はかなりセンシティブであり、普段気軽に話せる話題とは言い難い。そうした状況を重々承知しながらも、韓国人の友人に歴史問題をどう思っているのか・感じているのか、話してもらえるよう何度か試みてみた。しかし大抵「デリケートな問題だよね」とすっと避けられてしまうのであった。14年8月15日のソウルを見て歩き、韓国人学生と日本人学生との座談会を通して、日韓関係への同世代のリアルな眼差しをやっと垣間見たような気がした。その時、もう少し長い時間、もう少し突っ込んだ話をしてみたい、韓国の同世代の生の声を聞いてみたいという思いを抱いた。自身の主たる関心事は差別・人権問題で、特に在日朝鮮・韓国人を取り巻く差別問題を、学校教育を包括した学びからアプローチすべく生涯学習専攻への入学を決意した。しかし、昨今の日韓関係の悪化、それを加速化させているとも思える既存メディアの強大な影響力に到底太刀打ち出来ないという敗北感をおぼえ、既存メディアの改善が先決だと思うようになった(勿論、メディアを通して発信するのは人間なので学びの重要性は変わりがないのだが、少し長いスパンで見なければならず、また確実に状況を改善できるとは限らない)。腹を割って、日韓メディアについて討論するというのは現在の私の関心に打ってつけだと思い、参加を決意した。

 フォーラムで予定されていた主なプログラムとしては立場反転ディスカッション、日韓メディアに関するポスターセッション、総合討論が挙げられる。

 立場反転ディスカッションではお互いがお互いをどう思っているのを知るために、日本側は「韓国人は日本のことをこう思っているだろう」、韓国側は「日本人は韓国のことをこう思っているだろう」という例を挙げていき、それを相互に検討・評価し、認識の差が何故生まれたのかを考えるグループワークだった。その際、私のグループでの韓国側は日本のことをよく知っていると感じた。挙がってきていた事柄が非常に具体的で、韓国側の日本への関心の高さを感じた。印象的だったのは、日本側が挙げた「上から目線と思われていそう」ということに対して韓国側がそうは思っていないと述べたことだ。そのことについて重点的に話し合ってみたところ、認識の差が生まれている要因として既存メディアに対する受け取り方・距離のとり方の差ではないかという結論に至った。国家(政治)としても、経済的にも優位に立っていると韓国人に思われている、と日本人が感じる理由として既存メディアの影響力が強いと思っているからだ。既存メディアが報じる韓国政府の反発的な行動、そして日本国内における既存メディアの影響力の強さを踏まえると、韓国国民も日本に対して反発的な感情を抱いているのではないかと日本側は考えた。だが韓国側はどうやら言論との間に距離をもっているようだ。ここに日韓でのメディアに対する姿勢の差が出たかもしれない。報道≒国民という暗黙の認識を孕んでいたとも言えよう。交換留学での人的交流を通して、報道が伝えきれていないことを感じる場面を経験しているが、そうした人間は決して多数派ではなく、大半の人がメディアを通して相手国を知る。人的往来は活発になっているが、訪れたことのある人、そこで相手国の人と知り合う・友だちになるという段階となると決して多いとはいえない。メディアに対してどう向き合うか、のちのポスターセッションの導入となる討論を行えたと思う。

 2日目のポスターセッションは、1日目の朝日新聞貝瀬秋彦ソウル支局長の講演で得たものを生かして行った。商業主義が既存メディアに与える大きな影響、そして既存メディア自身がその役割をどう自覚してどう報道していくのか。第一線で働く方の意見にはやはり重みがあった。ポスターセッションでは、日韓メディアに対する問題意識として説明不足と説明下手について挙げた。それぞれが相手国の現状を報道する際に、「刺激的」なことが報道されやすいのではないかと考えた。日本国内の右傾化への対抗勢力の登場や韓国国内での朴槿恵政権の不人気よりも、経済協力についての合意を果たしたことよりも、日韓共同開催のW杯での応援ムードやセウォル号・JR脱線事故の遺族の交流会よりも、不愉快さを強調する報道に偏向しているのではないかということだ。勿論、安倍首相が「731」と番号の振られた戦闘機に乗り、報道陣に姿を見せたことは事実であり、近隣国への配慮を欠いた行動であったかもしれない(また、信頼関係を構築できていれば痛烈な批判を得ずに済んだかもしれない)。しかしそれが日韓関係の全てではない。

 「売れる」ことを考えれば自ずと攻撃的で、刺激的で、人の悪意を利用・増長する内容になってしまうのかもしれない。果たして近隣国との関係の悪化を加速させることが報道機関としてやるべきことなのか。ただ、講演でもあったように、商業主義は根強い。いくら理想を述べても、空いた腹は満たされない。報道に関わる人もまた1人の人間で、生きていかなければならない。また、日韓関係の悪化を無意識に支えてしまっている新聞等を読まない無関心層へいかに働きかけるかという問題もある。そこで私たちのグループでは広く普及されている学校教育や、新聞よりもハードルが低いと思われるテレビ放送について検討した。

 学校教育においては、記事を見極める能力を子どもにつけさせる取り組みを積極的に行っていくことが提案された。最近の傾向として、学校図書館を活用した調べ学習を通してメディア・リテラシーを育成する動きが活発になってきている。ここで面白い視点が共有された。それは、正しさとは何かということだ。記事を見極める際にもつ視点もまた、メディアに頼るのではないかという指摘だ。事実誤認といった初歩的な問題はまだしも、何をもって正しいとするか、その重点は人によって異なる。人道的な正しさなのか、法的な正しさなのか。この問いかけに対する私たちのグループの結論は、お互いの価値観を知ることで落ち着いた。チョーク&トークの教育方法から抜け出し、話し合いをする時間を多く持つことで、自分とは違う考え方に出会い、他者と歩み寄る力を身につけていくことを目指していくというものだ。日韓関係の問題として、お互いの文化や外見に共通点もあるために生じる誤解や苛立ちがあるが、同国民であっても相手を同一視しないために相手との違いを知ることは悪いことではないという意見が挙げられた。偏見や差別意識は簡単には克服できない。子どもたちにはフラットな眼差しで文化交流できる強みがある。学校教育で扱いきれないことであれば、外部機関との協力で文化交流を実施することも良いと生涯学習専攻である私は考える。

 また、新聞よりも受動的に受け取れるテレビ放送に反映させていくユニークな案が挙がった。ドキュメンタリーやドラマを通して、相手国のリアルな姿を詳細に描いていくことで、相手国を知る手段として圧倒的にメディアに依存している現状を逆手にとることができるだろう。しかしバラエティ番組での危険性も挙げられた。悪意を増長させたり、面白さのために編集で切り落とされてしまったりすることも多いだろう。また、番組の内容自体は放送局で決められるので、外部の意見が反映されにくい難点もある。

 グローバル・メディアについても挙げられた。アルジャジーラがその例だ。政府による言論統制の厳しい現状があるため、国家という枠組みを超えて報道の自由を確保していくという取り組みだ。日韓、東北アジアでこうした取り組みが行われていけば、面白いだろう。

 フォーラムを通して再び頭を悩ませているのが、人間のきたなく、しかしきもちのよいものである悪意にどう抗っていくのかということだ。毒づいたり、悪口をしたり、そして誰かを貶めたりする悪意は非常に気持ちのよいものである。日韓関係が悪意のはけ口となっている現状があるが、果たしてそれが全く悪いことだと言い切れるのだろうか。仮想敵を作ることが悪いことなのだろうか、と。しかしそれが内政問題への国民の不満をすり替える手段として活用されているのであれば、少し踏みとどまって考える必要がある。日韓関係が悪意のはけ口として機能しても、何の解決にもならないからだ。個人的には日韓両国が友好的な関係を結べればいいと思うが、それは極めて個人的な感情であって誰かが誰かを嫌うことは止めることができない。しかし、嫌う原因が日韓関係を端緒としているわけではなく国内における不満なのであれば、それは冷静に国内問題の解決を図るべきだろう。そうした点を踏まえると、仲の良い友人よりはビジネスパートナーとしての道を目指す方がより現実的なのかもしれない。嫌いな人と仕事をしないかと言えば、多分そうではないし、地理的に近隣国である韓国との経済協力は決して悪くはない(日本にうまみがあるのか分からないが。経済を勉強しなければと思わされたきっかけだ。もう少し国民目線でみると、歴史修正主義者の発言により、被害国の国民の心を抉ることになるので、日本国民として監視と抗議をしていく責任はあるだろうと再確認した)。人的交流は好きな人同士やればいいのではないかと思う一方で、いざ両国の国家的危機に見舞われた際にこうした小さな集まりでの微々たる交流が踏みとどまる機能を果たしてくれることを祈る。そのためにも、無力にも思える(そして今はまだ無力である)こうした人的交流を諦めずに続けていきたい。今の私に出来る、小さくはあるがいつかは花開くだろう投資であるからだ。

 このフォーラムで、いくつか面白いエピソードを得られたので紹介する。・

 産経新聞による朴槿恵大統領に対する報道をどう思っているのか気になっていたが、「ありがたかった」という韓国人参加者の発言に驚かされた。なんでも、この騒動を通して、韓国の言論統制の現状を知ることが出来たからだ、という。脊椎反射的ではなく、その前向きさに舌を巻いた。

 また、同じグループワークの韓国人が「日本人は模造紙を書く時など作業ごとにすぐ立って動いてたのに私たちずっと座ってたね(笑)どのグループ見てもそうだった」と言っていたのが印象的だった。私は国籍で人を判断したくないという考え方を持っている。1人の人として相手を受け止めたい。ただ韓国人は日本人とよく似ていると思っていた。共有できることも多く、韓国人と他国の留学生の話をする時に「外国人」と形容していて、途中でそのおかしさに気付いてお互い大笑いするというのはよくあることだ。ただ、姿形や考え方が似ている私たちにも、ちょっとした違いがあるものなのだと思った。